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2009年ベルリンでの研究滞在のブログです。 修士課程、地理学、ベルリン自由大学、マルゴットベーゼ教授、氷河地形 Palaeo Environmental Change Since The Last Glaciation in the Northern part of Oderbruch, NE Germany. Research activity on DAAD scholarship (05-11. 2009)

2009年10月30日

オーダーブルッフの河川改修 にまつわる歴史

最近では1997年に114名の死者、数千軒の被害を出したオーデルの大洪水。3000台以上の災害対策車や800万の砂袋が軍などによって運び込まれた。この砂袋は1袋3ユーロで購入できる(募金として?送料別途)。
こうしたオーデル川の洪水の歴史については16世紀から記述が残っている。

・・・春と夏の洪水はひとびとを悩ませていた。当時は各村ごとで堤防を築き洪水対策を行いつつ、遂に大々的なダム建設の話が持ち上がった。このダムはオーデル川がオーダーブルッフの低地に流入してくる入口を塞き止める場所に予定される。しかし1539年、1609年と大きな洪水が起こり、人々の間ではダム建設は無理だという雰囲気が漂う。
1648年、ウェストファリア講和条約によってプロイセンがこの地域を支配するようになると状況は一変する。フリードリッヒⅠ世はブランデンブルクの中でも特にオーダーブルッフの開発に力を注ぎ、洪水の被害を受ける低地を使えるようにするための政策を推し進める。

こうして1717年、オーデル川の左岸に長さ35kmにも渡る堤防が、ちょうど現在のドイツとポーランドの国境をまたぐように築かれた。そしてこの堤防を管理、維持する決まりを出した(1717年6月23日)。さらに1735年、堤防のすぐ上流にダムを作り、オーデル川やバルテ川の洪水がオーダーブルッフに侵入するのを防ごうと考えた。しかし・・・。
1736年の夏に起こった洪水によって左岸の堤防は決壊、続いてダムも決壊しオーダーブルッフは水浸しになってしまう。多くの犠牲者、浸水し崩壊した村々、人々は意気消沈。オーダーブルッフは一気に荒廃した雰囲気に包まれた。畑や牧草地は砂およびシルトに覆われてしまい、その年には無収穫に終ったのみならず、一面に広がるシルトによって農業はしばらく休むより他なかった。

これを見たフリードリッヒⅠ世はすぐさま再建政策を打ち出し、堤防の設計責任者にジモンレオンハルトを招聘する。ジモンはまず水浸しになった低地の排水を考案し現地測量を実施、1747年に干拓を開始する。この間、フリードリッヒⅡ世へと王位と共にオーダーブルッフの洪水対策政策も継承された。(ちなみにこのときに作られた地図が1746年の運河形成の際に活用される。その際、オイラーの定理のオイラーも建築に関わる。)
1753年、古いオーデル川の左岸に堤防が築かれ、新しい水路でまっすぐ北流するように運河が整備される。ジモンレオンハルトの干拓によって32.500haもの土地が陸地となり50の新たな村がうまれる。(オランダ人お得意のポルダー、ユトランド半島の西側でもポルダー連発)。これによって多くの漁民が農民へと転職するが、かれらは元々浸水していなかった少し高い土地を与えられた。

1756年から7年間続く戦争の間、古オーデルの堤防は多くの箇所で決壊する。決壊箇所の補修が行われたにも関わらず、1770年、1780年と洪水が起こり、堤防を乗り越えて畑や村へと浸水してしまう。
19世紀のはじめにはついに、古オーデル川を切断してしまおうというコキウスプランが立ち上がるが、地元領主達が船の運航がなくなることを恐れ大反対し頓挫した。(Hermann 1997, Nippert 1995, Michalsky 1983)

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