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On The Earth Down

2009年ベルリンでの研究滞在のブログです。 修士課程、地理学、ベルリン自由大学、マルゴットベーゼ教授、氷河地形 Palaeo Environmental Change Since The Last Glaciation in the Northern part of Oderbruch, NE Germany. Research activity on DAAD scholarship (05-11. 2009)

2009年12月18日

修士論文に関して、作図等はそろそろ終り(通常、夏休みまでに終わらせるという話である)。
こんなことを決して書いてはいけないのですが、論文を書きたいという欲求が湧き上がってこない以上、文章は書けません。そうして提出まで25日となっているが、そのファーゼが訪れるまでまだ少し時間があるような気のせいにはまっています。時間的にはすでに書き始める(終わる)べきですが、文章をタイムプラン通りに書けない。そう思いながらも修論を進めなければと思うので、どうしてもマウスは図表作成に向かうことになっています。

2009年11月30日

帰国日本着

東京に戻りました。思ったよりも寒いです。
2年前の冬、調査でベルリンに3週間ほど滞在してから帰国した際には東京が暖かく感じられ、
そのまま冬の感のないまま春を迎えましたが、今回はまだ寒さが熟れていないときに戻ってきてしまったようです。特に家の中が寒い・・・。
東京に戻ってきたので、後は論文を書くだけです。この寒さは篭って書くには良い条件です。日中は陽が出るし、ごはんは美味しいし、コンビニは24時間空いていることですし。

2009年11月20日

帰国マジか

帰国直前にカラーコピーをもう一度するため、ベルリン自然史博物館の図書室を訪問しました。バックヤードに図書室はあるのですが、僕が思い描いていた「博物館の図書室」は実はここで、すごく高い天井まで、壁いっぱいに並んでいる本たちと、机の上に転がってる化石と岩石を横目にしながら文献を読むことができて嬉しかったです。勉強していた学生みたいな男性の彼とか賢そうだったなぁ。

2009年11月10日

ベルリンの壁崩壊20周年

昨日11月9日の夜、ベルリンの壁崩壊記念はブランデンブルク門のそばまで行きました。




2009年11月3日

ブランデンブルク州測量局 ボーリングデータアーカイブ

ベルリンから電車で2時間のコトブスに、ボーリングのアーカイブを訪ねに行きました。コトブスは思っていたよりは活気がある街でした。スポーツと街、採掘と街、少数民族と街、バームクーヘンと街といったように色々なテーマが見つかる街のなかで、今回はブランデンブルク州測量局のアーカイブを訪問しました。コトブス駅から路面電車で3駅ほど北上した、アルトシュタットの南側にアーカイブは位置しています。
コトブスの大学生もよく来るということで非常に学生に優しい、親切なターニックさんが対応してくださいました。地下水や地熱の調査にもボーリングはされていて、本来はまず最初にここに来るべきだったかなぁと帰国1ヶ月前にして思いながら、ボーリングデータを書き写しました。ドイツ人のアルファベットはしかしかなり読み解くのに苦労し、ターニックさんの忍耐強い力添えがなければほとんど何もできなかったと思います。
最近の実験結果には水文学のホツマンさんが相談にのって下さり、参考文献を教えていただきました。
現在建設中のニーダーフィノウの運河にある船用エレベーターの際には新しいボーリングデータはとってないそうです。

「バウムクーヘン食べれるカフェってありますか?」と道行く人に尋ねたら、「バークムーヘン!当たり前!」とアルトシュタットのカフェを紹介してもらいました。念のため別の人にも同じ質問をしてみたら、「私はあまりバームクーヘンは知らないけど」と前置きしつつ同じカフェを教えてもらいました。たしかにバームクーヘン自体も非常にしまっていて美味しかったです。

2009年10月30日

オーダーブルッフの河川改修 にまつわる歴史

最近では1997年に114名の死者、数千軒の被害を出したオーデルの大洪水。3000台以上の災害対策車や800万の砂袋が軍などによって運び込まれた。この砂袋は1袋3ユーロで購入できる(募金として?送料別途)。
こうしたオーデル川の洪水の歴史については16世紀から記述が残っている。

・・・春と夏の洪水はひとびとを悩ませていた。当時は各村ごとで堤防を築き洪水対策を行いつつ、遂に大々的なダム建設の話が持ち上がった。このダムはオーデル川がオーダーブルッフの低地に流入してくる入口を塞き止める場所に予定される。しかし1539年、1609年と大きな洪水が起こり、人々の間ではダム建設は無理だという雰囲気が漂う。
1648年、ウェストファリア講和条約によってプロイセンがこの地域を支配するようになると状況は一変する。フリードリッヒⅠ世はブランデンブルクの中でも特にオーダーブルッフの開発に力を注ぎ、洪水の被害を受ける低地を使えるようにするための政策を推し進める。

こうして1717年、オーデル川の左岸に長さ35kmにも渡る堤防が、ちょうど現在のドイツとポーランドの国境をまたぐように築かれた。そしてこの堤防を管理、維持する決まりを出した(1717年6月23日)。さらに1735年、堤防のすぐ上流にダムを作り、オーデル川やバルテ川の洪水がオーダーブルッフに侵入するのを防ごうと考えた。しかし・・・。
1736年の夏に起こった洪水によって左岸の堤防は決壊、続いてダムも決壊しオーダーブルッフは水浸しになってしまう。多くの犠牲者、浸水し崩壊した村々、人々は意気消沈。オーダーブルッフは一気に荒廃した雰囲気に包まれた。畑や牧草地は砂およびシルトに覆われてしまい、その年には無収穫に終ったのみならず、一面に広がるシルトによって農業はしばらく休むより他なかった。

これを見たフリードリッヒⅠ世はすぐさま再建政策を打ち出し、堤防の設計責任者にジモンレオンハルトを招聘する。ジモンはまず水浸しになった低地の排水を考案し現地測量を実施、1747年に干拓を開始する。この間、フリードリッヒⅡ世へと王位と共にオーダーブルッフの洪水対策政策も継承された。(ちなみにこのときに作られた地図が1746年の運河形成の際に活用される。その際、オイラーの定理のオイラーも建築に関わる。)
1753年、古いオーデル川の左岸に堤防が築かれ、新しい水路でまっすぐ北流するように運河が整備される。ジモンレオンハルトの干拓によって32.500haもの土地が陸地となり50の新たな村がうまれる。(オランダ人お得意のポルダー、ユトランド半島の西側でもポルダー連発)。これによって多くの漁民が農民へと転職するが、かれらは元々浸水していなかった少し高い土地を与えられた。

1756年から7年間続く戦争の間、古オーデルの堤防は多くの箇所で決壊する。決壊箇所の補修が行われたにも関わらず、1770年、1780年と洪水が起こり、堤防を乗り越えて畑や村へと浸水してしまう。
19世紀のはじめにはついに、古オーデル川を切断してしまおうというコキウスプランが立ち上がるが、地元領主達が船の運航がなくなることを恐れ大反対し頓挫した。(Hermann 1997, Nippert 1995, Michalsky 1983)

2009年10月27日

論文、本のPDF化


ドイツ文学および美学を研究されている小野寺さんが今日帰国され、また来週には歴史家の柳原さんも帰国。お二人からは今滞在中、ドイツやベルリンの文化、歴史について様々なことを教えて頂きましたが、その中でも僕の人生を大きく変えたものはカルカソンヌだと思います。あんなに面白いゲームがあるとは思いませんでした。町や道の建設はお任せしますが、自然地理を少しでもかじっている以上、野原に寝るというスタンスは貫きます。ゲーム開始時から寝てしまうとブーイングを受けますが、自然地理的に許して頂きたく。
冗談はさておき、お二人からは研究者の楽しみと苦悩を教えて頂きました。苦しみの向こうの快を求めるという構造で僕が研究に向かえるどうかは、今回の論文の出来にかかっているかもしれませんが、少なくとも研究者の楽しみの部分はお二人からよくよく教わりました。お二人とも研究に関しては非常に楽しそう語り、話がいつまでも止まりませんでした。最初の前置きで「話せば長くなるから端折って話すと・・」って言っていたけどなぁ。ドイツに関する研究の様々な切り口も見せて頂き、お話を伺いながら地理と関係してそうだなぁとよく思うことがありました。たとえばザンドマンという砂男の民間伝承がある地域は、風成堆積物が分布している地域の偏西風の風下側じゃないかとか、だったら氷床縁が関係しているんじゃないかとか、情動と感情の関係でドイツと日本の文化的関係はどの程度まで説明できるのかとか、西欧の論文はかなり形式論理で自然地理でもとんでもない推論が書かれてたりするとか。本当に楽しい時間を共有させて頂きました。
あと1ヶ月で僕も帰国です。論文や本をスキャンしながら色々と振り返っています。スキャンの光がまるで走馬灯のようです。

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